レポート
夢に向かって走った憧れのマラソン ~伊澤菜々花の挑戦の始まり~(その1)
第44回大阪国際女子マラソンレポート
スターツ陸上競技部
監督 弘山 勉
昨年3月に、順天堂大学大学院を修了し、2年3ヶ月振りに現役復帰を決めた伊澤菜々花がスターツに入社したのが4月。それから僅か10ヶ月しか経過していない2025年1月26日、彼女が現役復帰を決意した理由=憧れのマラソン(大阪国際女子マラソン)に挑みました。
結果は、2時間29分28秒の8位。現役復帰して間もないマラソン挑戦であること、25キロまで先頭集団で戦ったことを考えると、「良く頑張った」と高評価が与えられると思います。しかし、伊澤は少しも満足していません。

現役復帰後、僅か半年でのマラソン挑戦は奇跡
それは、ただ出場するだけではなかったからです。「現役復帰して間もないから無難に」などという生半可な気持ちは微塵もありませんでした。「本気で目指す初めてのマラソン」に「優勝を目指して」という目標が加えられた正真正銘の挑戦だったからです。
「本当に優勝を目指したの?」入社当時(4月)の彼女の状態を知っている人にとっては、信じられない奇跡に感じるかもしれません。そんな物語が、この10ヶ月という短い期間に育まれてきたのです。私は、それを目の当たりにしてきたわけですが、予想を超えた出来事のように思えます。
実業団に進んでも「期待されるほどの活躍ができなかった選手」という像が伊澤菜々花にはあったはずです。それが、ブランクを経て33歳にしてリスタートし、なお且つ、過去の記録を大幅に塗り替え続けるような進化を遂げるとは、常識ではありえない・・・傍らにいた私でも、そう思います。

そんな復活劇を演じることができた理由は、伊澤の中にある「揺るぎない信念」と「決めた目標」「成し遂げたい情熱」です。「常に新しいスタートを切り活性化していくこと」を謳うスターツのスピリッツが乗り移ったのではないかと感じます。12年ぶりに実業団の世界に戻った私と一度は引退した伊澤が現役復帰を決めて出会ったのが、スターツという会社であることが、何らかの意味を持つ、もしかしたら、必然のような気がします。
復帰して間もない伊澤の大阪国際女子マラソン挑戦、しかも、優勝を狙うのは、普通はありえないことですが、私は「あり得る」と思っていました。私の経験則から判断して、十分に実現可能な練習ができていると感じていたからです。伊澤には無限の可能性が秘めていることを、直近の4ヶ月間に、いやというほど私は見せられてきました。

信じて疑わなかった大阪国際女子マラソンでの快走
しかし、実際は、そんな甘いものではありませんでした。25キロからペースを落とし始め、最後はフラフラな状態でゴールすることになりました。練習からは、想像できない姿です。さらに、ゴール後は、体調が急変し、病院に救急搬送されました。「低体温」「低血圧」「過呼吸」「意識障害」おそらく「低血糖」、という症状が重なり、一時は危険な状態でした。
伊澤の現状の能力に対してレースが過酷だったというより、今回の結果(レースの後半部分)は、伊澤の心技体、とくに心の部分が大きく影響したと予想しています。それらの分析をしつつ、伊澤の挑戦の経緯、それが招いた結果などを説明してみたいと思います。

厳しいレース展開で要求された地力
前半は、強い向かい風が吹く中、ペースが安定しませんでした。ハーフの通過は、タイム以上に負荷がかかっていたと思います。そんな状況下で、ペースメーカーが入れ替わった次の1キロが、上り坂がある中、3分13秒に上がりました。ハーフ地点から25キロまでの消耗が、意外と大きかった気がしています。
伊澤がレース後に「ハーフの時点では、とても楽だったのに、25キロ手前で急にカラダがキツくなった」と語っています。前述の仮説は正しいとしても、中間点を過ぎた後、とくに大失速した30キロ以降が不可解でなりません。どうして、ここまでの失速が起きたのか?という疑問です。

「地力」の差なのか?
そうは思いませんが、もしかしたら、「そうなのかもしれない。いや、別の要因によるものだ」と揺れる私がいるのも確かです。
地力とは、本来持っている力と意味されますが、底力と言い換えることができると思います。本来持っている力が「他人と差がつく極限の状態で発揮できる力なのか」どうか、つまり、自分の底(限界)に達したところで踏ん張ることができ、且つ、相手に競り勝つ場合に、「地力に勝る」と言われる“力”。それが地力であり、底力だと思います。
マラソンには「30キロの壁」があると言われるのは、30キロ以降が極限状態での戦いになるケースが多いからです。この30キロ以降に戦える地力(=底力)があるか否かが、マラソンという競技に求められることになります。

地力・・・これは、目標に向かって地に足を着けて取り組んだ「時間」×「内容の濃さ」でこそ養われる力だと思っています。つまりは、極限状態という一歩間違えば、奈落の底に落ちるような練習を繰り返してこそ養える力である気がします。
その厳しい鍛錬の反復には、強い気落ちが必要で、結局は、心と努力で培った身体能力(技術を含む)で他者と争い、最後は底力が勝敗を決定することになるのだと思います。この時間が足りなかったのだとしたら、限られた時間の中で準備した伊澤は受け入れるしかありません。

マラソンを勝つための力って何だろう?
地力や底力の意味はわかると思いますが、その力を評する上で、そこには高いレベルという条件(状況)が付随することになります。表現は難しいですが、多くの人ができることを地力・底力とは表しません。「ハイレベルな勝負の土壇場」で、人々が感嘆するほどの力を発揮して勝ち負けになった場合に、「地力に勝る」「底力がある」と皆が評価するものです。
マラソン競技において認められる力があるかどうかは、レースレベルや展開が過酷な場合、もしくは、厳しい条件下で圧倒的な力の差を見せつけた場合に限る話だと思います。

ということは、「自分が成し遂げたい“もの”のレベルを可能な限り引き上げて、そこに向かって挑戦する人に宿る力」と言えそうです。「叶えたい夢」が高次元で、しかも、難易度が高い場合に、「成し遂げたい強い想いによって極限状態の練習で養われた能力」を土壇場で引き出せると底力になるのだと思います。
自分が設定する夢や目標で、自分の住む世界が決まります。その世界で勝つために必要な底力は、必然的に決まってくるものだと私は思います。「レースで待ち受けるどんな条件でも引き出せる底力養成ができたか?」が、マラソン競技では問われることになります。では、伊澤には底力が養われていたのか?という評価が必要になってきます。

目標と覚悟
その前に、目標設定と覚悟について述べます。今回の大阪国際女子マラソンに向けて、12月の強化合宿が終わった時点で、伊澤と私は「世界陸上の日本代表を目指そう」となりました。何を根拠に?という問いがあるとしたら、「それを裏付ける練習ができたから」と私は答えます。練習レベルから言って、当然の選択(目標設定)だったと思っています。
そして、年が明けた1月になっても、伊澤は、目標に相応しい練習を続けていました。私の予想を上回るタイムで全ての練習をクリアしてきたのです。自信を深めて大阪入りしました。

大会2日前、招待選手の記者会見が開催され、伊澤も登壇者に選ばれ、会見に臨むことになりました。最初の代表質問が「今回の目標を具体的に示してお答えください」というものでした。
伊澤は「優勝と2時間19分台です」と答えました。あっさりと。
記者さんたちは、少し驚きの反応を見せました。当然だと思います。初マラソンを迎えるに等しい選手が、いきなりのビッグな発言をしたわけですから。
私も「ここで言うの!?」と少し驚きましたが、ある意味、納得できます。自分を奮い立たせる行為、つまりは、「戦闘モードに入ったな」と感じたからです。30キロの壁を乗り越える覚悟だとも言えます。世界陸上を目指すブレることのない目標を、あらためて自分自身に言い聞かせたのではないか、という気がします。

それは、今大会のペースメイク(設定)に起因しています。ハーフマラソンの通過予定が、1時間9分45秒前後、単純に倍すると、2時間19分30秒です。このペースに付いていくとしたら、生半可な気持ちでは無理です。心技体で、このレベルに対応する必要があるからです。レース前に、その覚悟を作れなければ、その前に負けです。
前日練習を挟んで、迎えた大会当日、伊澤は落ち着いていました。私の中では、少なくとも、優勝争いはするだろうと確信を持ち、最後は、強い想い(底力)で勝敗は決するだろうとレースに送り出しました。

厳しいレース展開から強い想いが裏目に
前半の強い向かい風、それによるペースメイクの不安定さ、で負荷は強まりましたが、レースの滑り出しは順調だったように見えました。実際、「ハーフ地点の通過まで、とても楽で、このままいける!と思って走っていました」とレース後に伊澤自身が語るほどの余裕が感じられました。
ハーフ過ぎのペースメーカーが入れ替わった上り坂がある1キロを3分13秒で走った後に、異変がやってきたのだろうと推測しています。レース前半の予想以上の負荷の高まりが、実際はボディブローとなっていて、この急激なペースアップがカウンターパンチとなってしまったのでは、と今は感じます。

25キロで先頭集団から離れ始めると、ここからは、ペースダウンを加速させていきます。地力の有無がレースの行方を左右した、と言ってしまえば簡単ですが、実情はそんな単純なことではないと思っています。
前述した「底力」の話です。勝敗を分ける場面で発揮されるのが底力だと言ってきましたが、早々(30キロ前)に勝負が決してしまった場合、底力が発揮されることはありません。ここでの伊澤のケースは、「勝敗が決した」と伊澤自身が思ってしまったと仮定した場合です。勝負のため(限界に抗うため)に発揮されるのが「底力」なので、勝負がついたと思ってしまったとしたら、底力が発揮されることはないのです。
それを説明するために、伊澤がスターツで現役復帰した経緯と大阪国際女子マラソンまでの過程の話が必要になります。

* 後編へつづく *
夢に向かって走った憧れのマラソン ~伊澤菜々花の挑戦の始まり~(その2)